『黄金のレガシー』を、トライヨラ王家から読む

補遺 残された問いと、本筋の外で

【第1部】継承の儀という旅路の解剖

ここから先は補足として、本編で扱いきれなかった話を、もう少し腰を据えて掘り下げていきたい。

最初は、継承の儀について。

本編でも何度か触れてきたとおり、継承の儀は単なる王位継承のための競技じゃない。父グルージャジャが、次代の王に「知ってほしいこと」を、各部族との試練を通じて体感させる旅だった。

7つの試練——「金・葦・壺・墓・封・食・友」。それぞれの試練に、グルージャジャが伝えたかった教訓が込められている。本編では断片的にしか触れられなかったその意味を、ここで考えていこう。

第1章 金の試練——搾取ではなく、循環

▼ 商売の本質と、もうひとつの教訓「人脈」

金の試練の舞台は、ペルペル族の集落。ここで描かれるのは、「商売の本質」だ。金の試練の根っこにある教訓は、商売とは恐怖や力で搾取するものじゃなく、互いの利益と信頼で循環するものだ、ということ。

そして、この試練にはもうひとつ大事な教訓が隠されている。マーブルの言葉から見てとれる、「人脈」の力だ。

人と人との繋がり、つまり「人脈」は、商売を成功させる重要な要素のひとつなんだ!

マーブル

ウクラマトが自分の人脈を使って、5倍の価値で取引を成立させたとき、マーブルがそう教えてくれた。人と人との繋がりも、立派な力のひとつ。それは商売だけじゃなく、王として国を治める上でも同じだ——というのが、この試練の本当の射程なんだと思う。

▼ コーナがトライヨラを救った「人脈の力」

そして実際、この教訓は物語の終盤でしっかり実証されている。ゾラージャによる二度目のトライヨラ襲撃のとき、その襲撃を退けたのはコーナだった。コーナは暁の血盟との繋がりを使って、短期間でラザハンとの同盟を結び、ラザハンの助力を借りてゾラージャ軍を打ち破った。

コーナは「人と人との繋がり」を武器にして、トライヨラを守った。金の試練が示していた「人脈は力だ」という教えを、コーナは実践していたんだ。

第2章 葦の試練——伝統に隠された「理」

▼ 祠破壊ミームと、ハヌハヌ族の神輿

葦の試練の舞台は、ハヌハヌ族の集落。この試練の教訓は、「伝統を軽視する者は、そこに込められた『機能』すら見落とす」ということだと思う。ネットでよく言われる「祠破壊ミーム」と同じ構図だね。なぜそこに祠があるのか、その理由を知らないまま「邪魔だから」と取り壊した者が、後になって祠の役割を知って青ざめる——あの話と同じだ。表面上の非合理さだけで文化を切り捨てるな。伝統に隠された「理」を知れ、ってこと。

ハヌハヌ族の神輿は、ただの祭具じゃなかった。葦の生育を助ける魔具でもあったんだ。でも長い年月のうちに祭りは形骸化し、若者たちは「神輿が魔具だ」ということすら知らなくなっていた。ウクラマトは、その忘れられた「理」を掘り起こし、祭りを再開させた。

▼ なぜ族長は、試練なんかで不作を解決しようとしたのか

ここで素朴な疑問がわく。集落が葦の不作で困っているのに、族長ザヌハリはなぜ、継承の儀の試練にかこつけて、王候補に解決を丸投げしたんだろう。魔具のことを知っているなら、自分たちでさっさと修理して祭りを再開すればよかったんじゃないか、ってね。

まず前提として、この不作は餓死者が出るような致命的なものじゃなかったんだと思う。そんな描写はないし、もしそのレベルなら、さすがに国が介入していたはず。実際、今回の大嵐で家屋が壊れて死傷者まで出たときには、連王がすぐに支援物資と人手を出している。本当に危機的なら動く国なんだ。葦の不作がそこまで手厚く扱われなかったのは、裏を返せば「まだ耐えられる範囲の慢性的な問題」だったということなんだろうね。

そのうえで考えたいのが、「魔具のことを知っていた人がいたのに、なぜ動かなかったのか」だ。

知識を持つ者がいなかったわけじゃない。ザヌハリは古株として、祭が豊穣の魔具だという知識を持っていた。移住者のウケブも、文化研究者として祭の仕組みに通じていた。でも、ザヌハリ自身が「あれほどの効果を発揮したのは私が小鳥だったころ以来」と驚いていたとおり、族長ですら本来の出力をもう忘れていた。長い歳月の中で「効果はこんなものだ」と慣れてしまっていたんだろうね。ウケブのほうも、あくまでよそ者の船大工で、村の不作を解決する当事者ではなかった。

そこに「貧困の悪循環」も重なる。神輿の修理には、眼の「アボキシャ」、担ぎ棒の「ウユイポ材」、そして尾羽を飾る「風に選ばれし者の羽根」が要る。この羽根は、風魔法で羽根を飛ばして距離を競う競技の優勝者の証だ。でもハヌハヌ族は魔力の放出量が多くてすぐへたばる体質で、その魔力を葦で補っている。葦が不作だと、羽根を取る競技をやる元気すらない。修理したくても、肝心の羽根が手に入らないわけだ。実際、彼らは「眼と担ぎ棒は何度か直した」と言ったのに、羽根のことは何も言わなかった。たぶん後回しにし続けたんだろうね。

知識が薄れ、効果も実感できず、素材も手に入らない。そういう三重の行き詰まりの中で、ザヌハリは継承の儀の選者という役目が回ってきたのを「これ幸い」と、王候補たちに託したんだと思う。

ただ、正直に言うと、ここはやっぱり疑問が残る。仮にも集落の長なら、不作が続いている時点でもっと真剣に原因を探って、知っている知識を引っ張り出して手を打つべきだったんじゃないか、とも思うんだよね。

それを言うなら、ウケブもだ。彼は祭が豊穣の魔具だという仕組みを誰よりも正確に理解していて、しかも数年この集落に住んでいる。目の前で葦が不作なのもわかっていたはずだ。なら「祭をちゃんと直して再開すれば、葦が戻るかもしれない」と、ひとこと進言するくらいできたんじゃないの、と思っちゃうんだよね。よそ者で当事者じゃないとはいえ、知識を持っている人間が黙っていたのは引っかかる。

なぜ知っているのに動かなかったのか——そのあたりは、もう少し丁寧に描写してくれてもよかったな、というのが正直な気持ちだ。一応の理屈は考えられるけど、もっとはっきりと作り手の側から納得のいく形で見せてほしかった部分ではある。

▼ 物理的解決ではなく、精神的解決

話をウクラマトに戻そう。彼女はこの不作を、祭りの復活という形で解決してみせた。ここで興味深いのが、コーナとの対比だ。コーナは葦の不作に対して、錬金薬を使い、水の流れに簡易的な地脈の役割を与えるという物理的な解決策で対応した。合理的で、すごく頭がいい。でも、それだけだったんだよね。コーナとハヌハヌ族の間には、絆は結ばれなかった。

対してウクラマトは、彼らと同じ目線で汗をかき、忘れられかけていた祭りを復活させた。ハヌハヌ族の若者リヌハヌの目の前で、神輿という「魔具」が本当に葦を蘇らせる奇跡を見せつけることで、「形骸化していた伝統が、実は村を救うためのシステムだった」という真実を、世代を超えて再接続させたんだ。

ウクラマトが救ったのは、葦の不作だけじゃない。ハヌハヌ族が先祖から受け継いできた、「自分たちの文化への誇り」そのものだった。

▼ グルージャジャ以来の乗り手

そして、この試練のクライマックスはここだと思う。

俺が選んだ人物はグルージャジャ様じゃない。(中略)イヒーハナ祭を再び開催できるのは、あんたらのおかげだ。だから俺は……ウクラマトに乗ってもらいたい。

リヌハヌ

おやおや、おやおや。王族が神輿の乗り手を務めるとは。あなた以来じゃないですか。ねえ、グルージャジャ。

ザヌハリ

このザヌハリのセリフ、すごく重い。これは単なる懐古じゃない。「ウクラマトが、80年前の連王と同じプロセスで、ハヌハヌ族との間に強固な『同盟』を結び直した」という、証明なんだ。

トライヨラという国は、圧倒的な力で他部族を屈服させて作られた国じゃない。グルージャジャが各地を巡って杯を交わし、友として繋ぎ合わせた国だ。その「建国のプロセス」を、ウクラマトは葦の試練を通して完璧に再現してみせたんだ。

第3章 壺の試練——契約だけじゃない、絆と笑顔

▼ 金の試練との違い、絆と笑顔

壺の試練の舞台は、モブリン族の集落。ここで問われたのは、「経済と統治の在り方」だ。

この試練、構造としては金の試練とよく似ている。どちらも「商売(経済)」のあり方を問う試練だ。でも、こちらでより強く照らされるのは——契約や利益だけじゃなく、そこに「互いを思いやる絆と笑顔」がなければ、本当の意味で幸せにはなれない、ってことなんだと思う。

そしてこの試練の背景には、とても大事な歴史がある。

▼ 「脅された職人の品で、誰が笑顔になるのか」

かつてモブリン族は、職人を拉致して恐怖で働かせていた。技術はあっても、そこに笑顔はなかった。その状況を変えたのが、若き日の理王グルージャジャだ。

この集落で作られた金細工は、実に素晴らしい。美しい素材に巧みな技が注がれていると、ひと目でわかる。しかし、決して心は震えません。脅された職人たちが、顔を強張らせて作った品で、誰が笑顔になるというのでしょう? 自ら望み、笑顔になった職人たちが魂を込めれば、金細工は太陽のように輝くはず……そう思いませんか?

理のグルージャジャ

理王はモブリン族と壺匠たちの間に、恐怖で縛る関係ではなく、互いが笑顔になれる契約を結ばせた。生産性を最大化するのは恐怖じゃなくて、「自ら望んで働ける環境」なんだという、すごく成熟した経済感覚の証明だ。

そしてこの偉業は、今もこの集落の文化の根っこに息づいている。レディロクが「グルージャジャがすべてを変えた」と語ったとおりだ。

▼ ウクラマトが受け継いだ「絆の経済学」

ウクラマトはこの試練を通して、その理王の哲学を受け継いだ。モブリン族と壺匠の絆を結び直し、ふたつの種族が笑顔で協力できる関係を再確認させた。

これは金の試練の「人脈の力」とも、葦の試練の「伝統に隠された理」とも、また少し違う角度の教訓だ。「契約や仕組みだけじゃ足りない。そこに絆と笑顔がなきゃ、人は本当には動かない」——そういう、王として国を治める上で絶対に外せない感覚を、ウクラマトはここで掴んだんだと思う。

第4章 墓の試練——戦って勝ち取る平和なんて、ない

▼ ヨカフイ族が辿り着いた答え

墓の試練の舞台は、ヨカフイ族の集落。ここで問われたのは、重い問いだったと思う。「戦争によって、本当の平和は得られるのか?」という問いだ。

ヨカフイ族はかつて、サカ・トラルへの出征を続けていた部族だった。彼らの戦いは、純粋な悪意から始まったわけじゃない。「いつか異なる部族が攻めてくるかもしれない」という恐れから、先制攻撃に出ていただけだ。でも、戦えば戦うほど、本当に欲しかった平和は遠ざかっていった。

そして、サカ・トラル出征が失敗に終わって故郷に戻ったとき、祖先たちは……ようやく気づいたのです。私たちが望んだものは、始めからここにあったのだ、と。生まれ育った場所で、記憶を石に刻みながら生きる。それこそが私たちにとっての真の平和だったのです。

実直なヨカフイ族

戦い続けるかぎり、目の前の平和に気づくことができない……。

ウクラマト

戦争によって平和を作り出そうとしても、それは絶対に得られない。ウクラマトはこの試練で語られた過去の過ちから、王として「本当の平和とは何か」を深く考えさせられたんだと思う。

第5章 封の試練——平和は「維持」するもの

▼ 想定外の答え、変わらない覚悟

封の試練の本来の課題は、ほころびかけていたヴァリガルマンダの封印を、どうやって強化するかというものだった。

結果としてウクラマトたちはヴァリガルマンダそのものを討伐してしまったから、本来予定されていた「封印を強化する」という試練は行われなかった。でも、ここで考えるべきはこの試練が「何のために用意されていたか」だ。

▼ 平和は一度勝ち取れば終わりじゃない

封印された厄災ヴァリガルマンダの前で、ウクラマトはこう呟いた。

もし封印が解けちまったら、今度はアタシらの世代が何とかしねぇといけねぇんだよな……。そんなこと、できんのか……?

ウクラマト

グルージャジャがこの試練で子どもたちに教えたかったのは、「平和は一度勝ち取れば永遠に続くものじゃない」という現実だったんじゃないかな。

父グルージャジャが命がけで封印したヴァリガルマンダですら、何十年も経てば封印が劣化していく。どれほど偉大な王であっても、すべての脅威を完全に消し去ることはできない。

だから次代の王は、先人が必死に掴み取った平和の重みを理解し、それを「維持・管理」していく覚悟を持たなければならない——っていう、極めてシンプルで重厚な王の責務がここに込められていた。

▼ 平和の継承は、ひとりじゃできない

そしてこの試練には、もうひとつ大事な側面がある。封印の維持って、決して一人ではできないんだよね。ヨカフイ族がその使命を受け継ぎ、長い年月をかけて護り続けてきたように、平和の維持には世代を超えた「継承」と、それを支える人々の献身が不可欠だ。次代の王に問われていたのは、その重みを理解し、彼らと共に平和を未来へ繋いでいく覚悟だったんだと思う。

ウクラマトはヴァリガルマンダを討つというかたちで、想定外の答えを出した。でもグーフールーは「グルージャジャの後継者として、相応しくないはずがなかろう」とそれを認めた。

封印を強化するのも、討伐してしまうのも、根っこにある覚悟は同じ——「民の平和を守る」という覚悟だからだ。

第6章 食の試練——血で血を洗った歴史を、料理に変える

▼ シャブルク・ピビルというトライヨラの縮図

食の試練の舞台は、シュバラール族の集落。ここで作るのは、両部族の文化を融合させた料理「シャブルク・ピビル」だ。

ただの料理対決じゃない。この試練が追体験させていたのは、トライヨラ建国そのものの歴史だった。

かつてマムージャ族とシュバラール族は、血で血を洗う殺し合いを続けていた。その二部族の間に立ち、対話と仲裁を重ねて和解を成立させたのが、若き日のグルージャジャだ。シャブルク・ピビルという料理は、その和解の象徴なんだよね。お互いの文化を否定せず、混ぜ合わせて、ひとつの美味を生み出す——これはまさに、トライヨラという多民族国家そのものの姿だ。

ウクラマトはこの試練を通して、「過去に対立していた者同士でも、対話と理解があれば、ひとつの食卓を囲める」というトライヨラの根っこを、舌で味わうかたちで受け継いだ。

▼ 「歴史を知る者」が勝つギミック

シャブルク・ピビルを作るには、バナナの葉が必要だ。本来なら、下の森に行けば普通に手に入る素材だった。だからイレギュラーが起きなければ、誰でもバナナの葉は調達できたはずなんだよね。

ただし——食の試練は「フンムルクが認めるシャブルク・ピビルを、先に作って完食した者の勝ち」という、早い者勝ちのルールだった。味、見た目、調理方法のいずれかが間違っていれば、何度でも作り直し。だから、ただ手早く作るだけじゃダメで、正しいレシピを「知っている」必要もあった。

ここに、歴史を知ることの本当の意味が効いてくる。ジャティーカ央森でしか栽培できないバナナの葉を取りに行くのは、コーナが言うように「かなりの時間のロス」になる。まともに下の森まで往復していたら、当然それだけ時間がかかる。

でも、シュバラールの歴史をきちんと知ろうとすれば、下まで行かずとも上の森に葉が隠されていることに気づける。歴史を知る者は、材料調達を一番時短できる——つまり、勝てる。

しかも今回はそこに、想定外のイレギュラーが追加された。災害で下の森への道が塞がれてしまったんだ。普通に考えれば「材料が足りない、詰んだ」となる場面だ。

それでもフンムルクは試練を中止しなかったし、題材を変えることもしなかった。なぜなら、災害で下の森(ジャティーカ央森)ルートが潰れても、上の森(ショブリト灰戦場)のルートはちゃんと生きていたからだ。「歴史を知ろうとする者が勝つ」というギミックの本体は、災害があっても機能していたんだ。

そして、ウクラマトたちがその隠された答えに見事辿り着けたのは、これまでの試練に真剣に向き合ってきたからだ。

ここまでの試練は一貫して、その地域の風土や文化を知るための内容になっていた。きっと、今回だってそうだ。となれば、シャブルク・ピビルそのものを知ることで、何か手がかりが得られるかもしれない。

コーナ

「この旅はずっと、歴史と文化を知ることを問われてきた。だから今回もそうに違いない」——コーナがそう推測できたのは、ここまでの試練のひとつひとつに本気で向き合ってきたからこそだ。試練を「ただクリアすべき課題」としか見ていなければ、ここで「父が何を伝えようとしてきたか」を振り返ることもできない。

ウクラマトとコーナは、その振り返りができた。だからこそ戦争の歴史を辿り、ショブリト灰戦場の和平会談の跡地に行き着き、そこに埋められていたバナナの葉を見つけ出せたんだ。

つまり食の試練は、その場で「歴史を知れ」と問う単発の試験じゃなかった。旅の中で知ろうとする姿勢を積み上げてきた者だけが、その応用としてこのギミックを突破できる——そういう設計になっていた。

一方、歴史を知ろうとしなかったゾラージャチームは、代用品で凌ごうとして敗北した。これも当然の結果だ。応用できる手札がそもそもなかったんだから。

これは偶然じゃない。「知ろうとしない者には、この国は治められない」というメッセージが、ギミックそのものに埋め込まれていたんだ。

第7章 友の試練——勝者と敗者の垣根を越えて

▼ 「手と手を取り合うことで生まれる強さ」

そして最後が、友の試練だ。舞台は、マムージャ族の集落。相手は、全盛期のグルージャジャの幻影。これまでの6つの試練で得たすべて——社会の機能、歴史の教訓、他者との和解——を理解した上で、最後に問われるのが、トライヨラ最強の理念だ。

「手と手を取り合うことで生まれる強さ」。

これが、グルージャジャがこの国を作るときに立脚した、いちばん根っこの理念だ。彼は単独で大陸を征服したわけじゃない。各地の部族と絆を結び、仲間と肩を並べて、ヴァリガルマンダのような厄災すら共に乗り越えてきた。

ここまでの6つの試練を通して、王位継承者たちは仲間と知恵を出し合い、いくつもの困難を一緒に乗り越えてきたはずだ。「手を取り合うことの強さ」は、もう骨身に染みているはずなんだよね。

これは私の解釈じゃなく、原作が明確に示していることだ。幻影グルージャジャを倒した直後、ウクラマトの勝利を渋ったゼレージャが、絞り出すように呟いている。

仲間の存在……それも、王に求められる素養だと……?

ゼレージャ

仲間というかけがえのない存在のありがたみを知ること。その仲間と手を取り合うこと。そこから生まれる強さを、我が身で実感すること——

グルージャジャ自身がかつて仲間と旅をして、その尊さを骨身で知った人だった。だからこそ、自分の子どもたちにも同じものを知ってほしかったんだろう。

友の試練は、その願いがきちんと届いたかを問う総決算として用意されていた。これまでの旅で何を学んできたか、何を身につけてきたか——それを、父の幻影との戦いという最終試験で証明する場だったんだと思う。

そしてこの試練の設計には、もうひとつ深い意味がある。

▼ なぜ食の試練で「勝者と敗者」を分けたのか

食の試練が「秘石を奪い合う」過酷なルールだったこと、覚えてるかな。なぜわざわざ、王位継承者同士をライバルとして戦わせたんだろう?

これは私の推測だけど——その答えは、続く友の試練にあったんじゃないかな。

食の試練で生まれた「勝者」と「敗者」、その垣根を越えて、互いに手を取り合えるかどうか。これこそが友の試練の本体だったんだと思う。王になれば、敵対していた部族とも手を取り合わなきゃならない。直前まで競い合っていた相手とすら手が組めない者は、王の器がない——そういう試金石だ。

食の試練と友の試練は、別々の試練に見えて、実はセットで一つの問いを構成していたんだと思う。

「お前は、敵だった者とも手を結べるか?」という問いだ。

第8章 みんなが笑顔で暮らすこと

▼ ウクラマトが旅の果てに見つけた答え

7つの試練を経て、ウクラマトはこんなセリフを残している。

アタシは継承の儀の旅に出るまで、全然わかってなかった。オヤジが作り上げた「平和」を護るってことの意味を。

戦がないことが平和なんじゃない。みんなが笑顔で暮らすことができることこそが、アタシがオヤジから継承し、護るべき平和なんだって。

ウクラマト

「戦がないことが平和なんじゃない、みんなが笑顔で暮らせることこそ平和」——この答えそのものについては本編で詳しく書いたとおりだ。

ここで大事なのは、それが7つの試練の積み重ねの果てに掴んだものだ、ということ。

旅で出会った部族のひとつひとつ、結んだ絆のひとつひとつが、彼女の中で「みんなが笑顔で暮らせること」という一点に収束していった。

しかもこの「みんな」は、抽象的なスローガンじゃない。彼女は7つの試練を通して、そこに暮らす一人ひとりの顔と事情を、自分の目で見てきた。だから彼女の「平和」は、会ってきたあの人もこの人も笑っていられる、という具体的な手触りを持っている。机上の理想じゃなく、旅の足跡そのものから生まれた答えなんだ。

こいつらが一緒だったから、アタシは知ることができたんだ。オヤジが築き上げ、80年間以上も護ってきたものの正体を、そして受け継ぐべきは何なのかをな。

ウクラマト

父グルージャジャが80年以上もかけて築き、護ってきたもの——それは、かつて争っていた部族たちが、手を取り合って共に生きていける「今の平和なトライヨラ」そのものだ。

ウクラマトは7つの試練の果てに、ようやくその正体に追いついたんだ。

第9章 運もまた、王の素質

ここまで、継承の儀の旅でウクラマトが何を学び、何を掴んだかを書いてきた。でも、彼女の「王の素質」は、それだけじゃない。

旅の始まりに、彼女がエレンヴィルの紹介でヒカセンを連れてきた、あの瞬間——あれもまた、ウクラマトの「王の素質」が顔を出した瞬間だったんじゃないかな。

▼ 「協力者は自由に集めていい」というルール

継承の儀には、「協力者を自由に集めていい」というルールがあった。ウクラマトはこう説明している。

多くの種族が暮らすトラル大陸を統べる王には、それらをまとめあげる力量が求められる。だから、異国人だろうがなんだろうが、協力者を自由に集めることを、連王が許可……いや、むしろ積極的に推奨してるのさ。

ウクラマト

「異国人もOK」「自由に集めていい」「むしろ推奨」——多部族国家トライヨラの王に必要なのは、種族や国境を超えて「信頼できる仲間」を集められる人脈と度量だ、ということ。父グルージャジャの王としての思想が、このルールには込められている。

ただ、実際の運用を見ると、ある程度のルールはあったんだと思う。

各候補者の協力者は、バクージャジャが故郷からお供を3人、ゾラージャがサレージャ1人、コーナがサンクレッドとウリエンジェの2人、ウクラマトはヒカセンを目当てに依頼し、そこにガラフの足跡を知りたいクルル、トライヨラの多民族統治を学びたいアルフィノとアリゼー、案内人としてエレンヴィルが加わって、最多の5人。

誰も傭兵団や軍隊なんてものは連れてきていない。

本当に「なんでもあり」なら、王族の財力に物を言わせて軍隊を雇う抜け道が成立してしまう。でも、金で兵士を買って試練を力業で突破したところで、「多様な部族をまとめあげる王の器」の証明にはならない。

理王がそんな穴を放置するわけがない。だからプレイヤーには明示されていないだけで、「連れていけるのは、本人の人望で集められる数名の協力者のみ」という明確な制限ルールが設定されていたんだと思う。

▼ ウクラマトの豪運

ここで注目したいのが、ウクラマトの「人選」だ。

彼女は強い助っ人を求めて、幼馴染のエレンヴィルを頼った。外の世界を知らないウクラマトが、世界中を旅している幼馴染に「強い人を紹介してくれ」と頼むのは、すごく自然な発想だ。

ただ、そこから「ヒカセン」という最強のカードに辿り着いたのは、相当な縁だった。エレンヴィルが偶然ヒカセンと知り合っていて、しかもその彼を紹介してくれた——そこには、確かに豪運としか言えない巡り合わせがある。

水晶公は暁ガチャでSSRヒカセンを引くのに天井を強いられたというのに——というのは冗談だけど、それくらいヒカセンというピースを引き当てるのは並大抵のことじゃない。なのにウクラマトは、それをたった一発で引き当てた。

しかも、ヒカセンの強さは、グルージャジャと手合わせした時にも証明されている。

……わしの本気の攻めを受け切った奴は、お前が初めてよ。理の頭が眠っているとはいえ、一介の冒険者ぐらい叩き潰してやるつもりだったんだが……。エスティニアンが言ったとおり、お前はとんでもない奴だな!

武王グルージャジャ

グルージャジャですら、本気の攻めを受け切られて舌を巻いている。これだけでも、ヒカセン個人の戦闘能力が規格外なのは間違いない。

でも、ヒカセンの真の強さは「他者と背中を預け合えること」だ。世界を揺るがすような強敵との死闘だって、振り返ってみれば全部「仲間との共闘」だった。

光の戦士の物語は、ずっと「個」じゃなく「絆」で成り立ってきた。

そして、ウクラマトはヒカセンをスカウトしに来ただけだったのに、結果として暁のメンバーまでセットで仲間にすることができた。宇宙規模の戦いを共に乗り越え、文字通り命を預け合ってきた歴戦の仲間たちまでもが、ウクラマトの助っ人として加わることになったんだ。

ヒカセンという最高の手札を得ただけでも凄まじい豪運なのに、そこに「絶対に崩れない絆」までついてきた。ウクラマトの引き寄せた運は、もう計り知れないレベルなんだよね。

▼ それもまた、人脈

そしてこの「ヒカセンを引き当てた」という事実は、単なる運の良さだけじゃない。

そもそもエレンヴィルという信頼できる幼馴染が傍にいて、彼がグリーナーとして世界中を旅していて、その旅の中でたまたまヒカセンと縁を結んでいた——その全てが偶然のようでいて、確かに重なってここに至っている。

そしてその縁の根っこには、ウクラマトのこれまでの生き方がある。王女の肩書きを振りかざさず、エレンヴィルや市井の人々と気さくに付き合ってきたこと。そういう日々のひとつひとつが、いざという時に彼女を助ける人脈になっていた。

これって、金の試練でマーブルが言っていた「人脈は商売を成功させる力」と、まるっきり同じ構造だ。

豪運というのは、運だけで生まれるんじゃない。それまでの日々の積み重ねが、ここぞというときに花開く——その姿を、運と呼ぶんだと思う。

そう考えると、ウクラマトの継承の儀は、最初の試練が始まるよりずっと前から、すでに始まっていたとも言えるんだよね。

継承の儀のスタートラインに立った時点で、ウクラマトはもう、彼女らしい歩み方で「王の素質」を蓄えていたのかもしれない。

【第2部】新しい王と、新しいトライヨラ

第1章 ウクラマトはなぜ自ら王を目指したか

もしウクラマトの目的が「ゾラージャの外征を止めること」だけだったら、自分より頭のいいコーナのサポートに回るのが、いちばん合理的だったはずだ。それでも彼女は、そうしなかった。なんでだろう?

これは私の推測だけど、彼女なりの「譲れない理由」と「王女としての意地」があったんだと思う。

▼ コーナは「文化の破壊者」だった

ゾラージャが命を脅かす「物理的な破壊者」だったとすれば、初期のコーナは、トライヨラの伝統を「非効率だ」と切り捨てる「文化の破壊者」だった。

葦の試練で見たとおりだね。コーナは錬金薬で効率的に不作を解決しようとした。そこに悪意はないんだけど、彼の中には「伝統に隠された理」を尊重するという発想が薄かった。

一方でウクラマトは、無知だったけれど「オヤジが作ったこの国のあったかい空気」が好きだった。まだ漠然とした感情でしかなかったけど、彼女の中には「今のままのトライヨラを愛している」という核があったんだよね。

もしここで彼女がコーナのサポート役に回っていたら、それは「アタシの大好きなトライヨラは遅れた国です」と認めて、コーナによる文化の上書きを許すことになってしまう。

ウクラマトは、自分の直感と「好き」を守るために、ゾラージャだけじゃなくコーナにも喧嘩を売るしかなかったんじゃないかな。

▼ 「王女の虚勢」から本物へ

序盤のウクラマトは、やたらと「トライヨラの王女として!」と肩書きを強調していたよね。あれは中身の自分に自信がないから、肩書きの鎧で必死に虚勢を張っていた証拠でもあった。

もしここで彼女がコーナの後ろに隠れてしまえば、「守られるだけの無力な妹」のまま終わってしまう。

アタシは全然その期待に応えられてねぇ……。

ウクラマト

クルルとの対話でこぼした本音だ。彼女は誰よりも、大好きな父の期待に応えたかったんだよね。

だからこそ、戦わずにサポート役に逃げるなんて、父の娘として、そして「王女」としての意地が、絶対に許さなかったんだと思う。

そしてこの「逃げなかった」という選択が、結果的に彼女を本物の王に育てた。継承の儀の旅を通して、虚勢の鎧は剥がれ、「みんなが笑顔で暮らせる国を護りたい」という、地に足のついた願いに置き換わっていった。

もし彼女がコーナのサポートに回っていたら、この成長は起きなかったかもしれない。「自分自身の王道」を選んだことが、彼女を王にしたんだ。

第2章 戴冠式での不自然な大歓声

ウクラマトが王位を継承したあの式典。国民が熱狂的に歓迎している光景に、ちょっと違和感を覚えなかった?

だって継承の儀が始まる前、ウクラマトは「王の器じゃない」と言われる泡沫候補で、圧倒的な大本命はゾラージャだった。それなのに、ゾラージャ派のブーイングひとつなく、式典は歓喜一色に包まれていた。

▼ 民は、彼女の旅を見ていた

でも改めて考えてみると、これは決して不自然なことじゃないんだと思う。

ウクラマトは継承の儀で、各部族の集落をひとつひとつ訪ね歩いて、試練と向き合ってきた。それは単に「課題をクリアする旅」じゃなかった。そこに暮らす民が、王位継承者の姿を間近で見て、自分たちの目で評価する旅でもあったんだ。

たとえば、ゾラージャ派だったペルペル族のハーベリ。彼は最初、ウクラマトに「3年熟成の最高級メスカル」という対価を吹っかけてきた。でもウクラマトがそれを本当に持ってきたから、彼は約束通り鞍を作った。「商売で人を幸せにするという、我らのモットーに背けはしない」という、彼自身の筋を通すかたちでね。

トライヨラに敵対していたヨカフイ族の一派を率いる、ヴォーポーローもそうだ。彼は最後まで「礼を言われる筋合いはない、借りを返したに過ぎない」と頑なな態度を崩さなかったけど、それでもウクラマトに助けられた借りを返すために、彼女が探していた黄金郷の情報を伝えてくれた。和解はしていない。でも、彼女の行動には応えた。

そして葦の試練を見届けたシュバラール族のウケブは、コーナを前にしてもなお、はっきりと宣言している。

コーナ王子の前で申し上げるのは恐縮ですが、私はハヌハヌ族の「葦の試練」を見届けて、確信したのです。あなたこそ、我らを率いていくに相応しい王の器であると。あの折、継承候補者の皆々は一様に葦の不作を解決してみせた。しかし、試練とは無関係なハヌハヌ族の文化的な問題を見抜き、イヒーハナ祭を復活させたのは、あなただけだ。

ウケブ

ゾラージャを推し続けていた者、トライヨラに敵対していた者、まっさらな目で見ていた者——それぞれ立場は違っても、彼女の行動を見た人たちは、それぞれのかたちで彼女を認め、応えていった。彼女は試練の旅を通して、ひとつひとつ着実に「民の信頼」を積み上げてきていたんだ。

▼ 噂は、国を駆け巡る

そしてこのウクラマトの評判は、各部族の集落に留まらなかったはずだ。試練を見届けた族長たちが、自分たちの民に語る。集落の民が、別の集落の知り合いに語る。トライヨラにも、その噂は伝わっていったんだろう。

旅が進むにつれて、ウクラマトの支持はじわじわと、しかし確実に広がっていった。戴冠式の頃には、彼女はもう「泡沫候補」じゃなく、「各部族の長から正式に認められた王の器」になっていたんだ。

もちろんそこに、コーナが理王として隣に立ったことの安心感も加わっただろう。「ウクラマトひとりじゃ不安だけど、コーナ様が支えるなら大丈夫」と、コーナの支持層も歓声に加わった。父グルージャジャの絶対的なお墨付きもあった。

でもいちばん大きいのは——ウクラマト自身が、旅を通してこの国の民の目に焼き付いたことだったんだと思う。

第3章 なぜ外征派は反乱を起こさなかったのか

前章では、ウクラマトの戴冠式が歓喜に包まれた理由を、彼女自身が各部族の民の心を旅で掴んできた、という角度から書いた。

でも、それでもあの「歓喜一色」が完全に説明できるかと言うと、やっぱり少し違和感は残るんだよね。実際には、最後までゾラージャを慕い続けていた民が、ゼロのはずがないんだから。

ウクラマトがどれだけ民の信頼を勝ち取っていたとしても、ゾラージャを担いで反乱を起こす外征派が一人もいなかったというのは、よく考えるとやっぱり不思議なことだ。ゾラージャを支持していた人々がゼロになるわけはない。だったら、その人たちはなぜ動かなかったのか。

▼ 外征派が本当に求めていたもの

まず大前提として、外征派の人たちは別に、ゾラージャ本人を心から崇拝していたわけじゃなかったと思う。

彼らの根底にあったのは、「今より豊かになりたい、何か新しい変化が欲しい」という、ごく素朴な期待だ。トライヨラは平和だけど、平和すぎて停滞している部分もあった。そこに「外征で他大陸を制圧して、富を持ち帰る」というゾラージャのビジョンが示されたから、彼らはそれに乗っかった。

つまり彼らが欲しかったのは「ゾラージャ」じゃなくて、「変化と利益」だったんだ。

だから、その変化と利益を別の手段で提供してくれる人物が現れれば、彼らはそちらに流れていく。理屈はシンプルだ。

▼ コーナが提示した「もうひとつの選択肢」

そして、外征派の一部を吸収する受け皿になったのが、コーナだった。

ウクラマトは単独で王になったわけじゃない。「シャーレアンの最新技術で国を根本から近代化する」と掲げたコーナを、理王として迎え入れたかたちで連王体制を作った。

ただし、ここは丁寧に分けて考える必要がある。外征派とコーナの革新派は、求めているものが微妙に違うからだ。

外征派が求めていたのは、大きく分けると「新たな領土」と「戦争に伴う商機」だった。一方コーナが提供しようとしていたのは、シャーレアン由来の技術導入による「生活の利便性」と「経済発展」だ。完全に重なる関係じゃない。

土地が欲しいと訴えていたトナワータ族のような層には、コーナの道は即効性のある答えにはならなかったはずだ。

でも「戦争で商機を得たい」と考えていた商人層には、コーナの技術発展は、別ルートで利益を提供できる選択肢になり得る。気球や鉄道みたいな新しい技術が国に入ってくれば、新しい商売の種は確実に生まれる。

つまりコーナの存在は、外征派の不満を完全に消したわけじゃない。でも、その中の一定数を「戦争じゃない別の道でも利益が見込めるなら、そっちでもいい」と納得させるだけの説得力はあった。

▼ 残された不満は、どこへ消えたのか

じゃあ、土地が必要だと訴えていた人たちはどうなったのか。

これは私の推測だけど——彼らの問題は、本来なら新しい連王体制の中で「内政課題」として扱われるべきものだったんだと思う。冷害で作物が育たない地域への支援、流通の改善、新しい農業技術の導入。コーナの革新派の技術と、ウクラマトの「みんなが笑顔で暮らせるように」という心が合わされば、そういう課題に時間をかけて取り組めるはずだ。

外征という「他大陸を侵略して土地を奪う」という暴力的な解決から、「自国内で課題を解決する」という地道な方向に、舵が切られた。それが新政権のスタートラインだったんじゃないかな。

▼ ゾラージャ自身が招いた「絆の不在」

そして、もうひとつ大事な要因がある。それはゾラージャ自身が、誰とも本当の「絆」を結んでいなかったという事実だ。

ウクラマトには、旅を通して絆を結んだ各部族の長たちがいた。彼らは「ウクラマトこそが王にふさわしい」と認めてくれた。

でも、ゾラージャの背後にいたのは、サレージャみたいな「甘い汁を吸おうとする者」だけだった。「強さ」という一点だけで繋がっていた関係は、その「強さ」が折れた瞬間、霧のように消える。

彼が弱さを見せることを拒み、民と対話することを「甘え」と切り捨ててきた結果が、ここで決定的に効いてくる。負けた時に「それでもあなたを王にしたい」と庇ってくれる人が、ひとりもいなかった——という、絶対的な孤独。

外征派は思想で繋がっていたわけじゃない。「ゾラージャが王になれば、自分の利益が叶う」という打算で繋がっていただけだ。そのゾラージャが負けた瞬間、彼の名前を担いでも自分の利益は手に入らない。だったらもう、彼の名前を口にする理由もなくなるよね。

▼ 描かれなかった人間ドラマ

ただし、ここでひとつ正直に書いておきたいことがある。

これまで書いてきた話——「ウクラマトが旅で民を魅了したから歓声があった」「外征派は利益で繋がっていただけだから反乱しなかった」——これらは、物語の整合性をなんとか繋ぐための解釈だ。でも、もっと正直に言うと、それでも完全には説明しきれない違和感が残るんだよね。

実際には、最後までゾラージャを慕い続けていた民がゼロのはずがない。「ゾラージャ様こそが本物の王だ」と信じていた人々、土地が欲しいと訴えていた人々、戦争で一発逆転を狙っていた人々——彼らの舌打ちも、困惑も、戴冠式以降の物語ではばっさりカットされていた。

あれだけの支持者が嘘のように消えたのも、残酷な演出のひとつといえるかもしれない。それでも、敗北したゾラージャから潮が引くように支持者が離れていく様子を痛々しいほど見せつけるワンシーンや、昨日までゾラージャに媚びていた商人が今日は新しい王にすり寄って商談を持ちかける場面——そういう描写があっても良かったはずだ。

これはやっぱり、尺の都合と制作側の方向性なんじゃないかなと思う。『紅蓮のリベレーター』のようなドロドロした政治劇が一部で不評だったからこそ、今回は「人の汚い部分」を意図的に減らして、明るいファンタジー寄りの大団円に振り切った——そんな選択があったように見える。

でも、そういう描写があれば、プレイヤーは「なるほど、外征派なんて所詮その程度の烏合の衆だったのか」と納得できたし、誰からも慕われないゾラージャの「絶対的な孤独」も、もっと痛々しく伝わったはずなんだよね。

式典に背を向けて去っていく者、舌打ちしながら歓声を聞く者、新しい王を見上げながら「それでも俺はゾラージャ様を忘れない」と心に誓う者——そういう人々のドラマも、できれば描いてほしかったな、というのが個人的な本音だ。

ファンタジー寄りの大団円も悪くない。でも、置き去りにされた人々の沈黙にこそ、ゾラージャという男が生きた証が残っていたはずなんだ。

【第3部】少し角度を変えて

第1章 黄金のレガシーは、なぜ賛否両論だったのか

『黄金のレガシー』は、賛否がはっきり分かれた拡張だった。私自身はこの物語が大好きで、ここまで長々と文章を書いてきたわけだけど、「面白くなかった」という声が一定数あるのも事実だ。その理由を、自分なりに整理してみたい。

▼ 「いなくてもよくない?」問題

不評の理由は人によっていろいろ言われている。でも私が思うに、その根っこにある最大の原因は、「ヒカセンがそこに存在する物語的必然性が弱かった」ことなんじゃないかな。

これまでのFF14のストーリーって、ヒカセンが全編通して目立ち続ける物語ばかりだったわけじゃない。紅蓮の解放戦争の中心にいたのはリセだったし、蒼天はヒカセンが旅をしつつも、アルフィノの成長やイシュガルドの人々の変革を描く群像劇の色が濃かった。

でも、これらの拡張で「ヒカセンが蚊帳の外だ」という評価にならなかったのは、「ヒカセンがいなければ絶対に物語が解決しない」という関係性が、ちゃんと確保されていたからだ。リセが牽引役だったとしても、ヒカセンは「革命を成立させる決定打」として不可欠だった。

ところが黄金のレガシーでは、ヒカセンが問題を解決する「最後の鍵」になっている場面が、すごく少ないし薄い。

私がパッと思いつくのは、エターナルクイーン戦くらいだ。しかもそのバトルですら、最後の最後はウクラマトがいいところを持っていく構図になっている。だからこそ余計に、「ヒカセン、本当にいる必要あった?」と感じてしまうんだよね。

新大陸の人々がヒカセンを「知らない」というだけならまだしも、物語の構造自体がヒカセンを必要としていないように感じられてしまう。

この「そこにいる必要性の描写の薄さ」こそが、プレイヤーから没入感を奪ってしまった最大の原因なんだと思う。

▼ ウクラマトが「勝手に強くなった」ように見えた

ヒカセンの必然性が薄く感じられた背景には、主役であるウクラマトの描かれ方も関係していたと思う。

彼女は、旅の中でぐんぐん成長していく。それ自体は主人公として正しいことなんだけど、その成長があまりに速く見えるせいで、「これならヒカセンがいなくても、ウクラマトひとりで何とかなるんじゃないか」という印象を与えてしまった。

実際には、要所で悩むウクラマトに、ヒカセンは選択肢を通じて何度も助言を返している。彼女はそれを受け取って成長していった。ちゃんと支えはあったんだ。でも、その因果が画面の上ではあまり目立たないから、結果だけ見ると、まるで彼女が勝手に育っていったように見えてしまう。

正直に言うと、当時プレイしていた私自身、彼女の立ち直りの早さについていけない瞬間があった。王になってから兄に襲撃され、その兄を討ちに向かうあたりの切り替えの速さとか、「対話なんて望んでいない」と言い切ってしまう場面とか。

でも、あの頃の彼女は、兄を討つという地獄のような役目を果たすために、感情を鉄の鎧で覆って、妹としての心を必死に押し殺していた。序盤で「王女として!」と背伸びしていた虚勢とは、また違う。これは、覚悟を決めて痛みに蓋をする虚勢だったんだ。それが痛いほど伝わってくるのが、タープの言葉であり、すべてが終わってから流したあの涙だった。

つまり、彼女が急に見せた王らしさや、兄を討つと言い切るあの冷たさは、彼女が変わってしまったわけじゃなく、弱さを必死に押し殺して、無理にそう振る舞っていたものだったんだ。でも、こういう心の機微って、はっきり描いてくれないと、リアルタイムで遊んでいる時には伝わりづらいんだよね。後からじっくり振り返れば見えてくるけれど、プレイしている最中は、その内側の痛みまで汲み取る余裕がない。

だからこそ、彼女が虚勢の裏で抱えていた弱さを、もう少しはっきり見せてくれていたら——ウクラマトへの風当たりも、きっともっと弱かったんじゃないかなと思う。

とはいえ、擁護もできるんだよね。ウクラマトだって、泣くべきところでは泣いている。父を殺されたとき、民の亡骸を抱いたとき、彼女はちゃんと涙を流した。でも、トライヨラの武王として民の前に立った以上、いつまでも泣いてはいられなかった。時間の猶予もなく、民の命もかかっている。そんな状況で悠長にみんなに慰めてもらっている暇なんて、彼女にはなかったんだ。

ここでうじうじ立ち止まっていたら、それこそ王としての覚悟はどうした、という話になってしまう。彼女が感情に蓋をして突き進んだのは、王としての正しい振る舞いでもあった。そう考えると、こういう極限の状況で心情まで丁寧に描くのは、簡単なことじゃないんだろうね。

▼ 暁月が残した「英雄体験の呪い」

これに追い打ちをかけたのが、これまでの冒険で積み上げてきた期待値だ。

私たちはハイデリン・ゾディアーク編の物語を通して、宇宙の果てで絶望を討ち果たし、世界を救った。人々からも「英雄」として扱われ続ける体験をしてきた。

その強烈なカタルシスを伴う英雄体験をした直後に、新天地で「ただの一冒険者(見守りポジション)」に戻されてしまう。これを「物足りない」と感じるのは、プレイヤーが驕っているわけじゃなく、これまでの壮大な物語構造が与えてしまった避けられないハードルなんだよね。

確かに一部には「英雄じゃないヒカセンで旅をしたい」という声もあって、運営はそれを汲み取ってくれたのかもしれない。でも私自身は、正直に言えば、もっと活躍させてほしかった、というのが本音だ。

新しい10年の幕開けとして、黄金のレガシーが目指した「原点回帰」という方向性自体は、決して間違いじゃないと思う。

ただ、これだけの実力を積み上げてきたヒカセンが、その実力に見合う活躍の場をほとんど与えられず、不完全燃焼のまま物語が進んでいった——そのもどかしさが、不満を一層大きくした要因のひとつだったんじゃないかな。

▼ プレイヤーが本当に欲しかったもの

じゃあ具体的に、プレイヤーは何を欲しがっていたのか。

もちろん、ヒカセンの出番がまったくなかったわけじゃない。選択肢でウクラマトにアドバイスを返す場面は何度もあったし、それはそれで悪くなかったと思う。

でも、プレイヤーが本当に欲しかったのって、そういう静かな関わり方じゃなかった気がするんだよね。たとえばウクラマトに稽古をつけてやる場面とか、彼女がさらわれた時にバクージャジャをワンパンで黙らせて助けにいく場面とか——そもそも、ヒカセンのこれまでの華々しい活躍を見込まれて、今回の依頼がやってきたんだから「うわー!頼れる!」と思わせてくれる爽快なバトル演出が、もう少し欲しかった。

スタンスとしては「お前が主役だ、自分で頑張れ」でいい。でも、いざという時には頼れる助っ人として颯爽と現れる。ウクラマトが「助けてー!」と泣きついても、「お前ならできる、自分でやれ!」とスパルタで突き放す——みたいな、師匠ポジションっぽい関わり方が良かったと思う。

ただ、これも考えものなんだよね。完全な師弟関係になってしまうと、それはそれで違う気がする。黄金のレガシーが描きたかった——というか、グルージャジャが伝えたかったのは、対等な仲間との絆だったはずだ。ヒカセンが師匠ポジションでウクラマトを下に置いてしまうと、その「対等さ」が崩れてしまう。

そう考えると、師匠でも傍観者でもない、絶妙なポジショニングが求められていた——というのが、難しいところなのかもしれない。

それでも、私が思うに——プレイヤーが望んでいたのは「ヒカセンが物語の中心にいること」じゃなくて、「ヒカセンがちゃんと登場人物として機能していること」だったんじゃないかな。ストーリーの主役はウクラマトでよかった。でも、彼女の旅路の中で、ヒカセンが凄腕の冒険者として爽快に活躍する場面は、もっと用意されていてほしかった。

▼ 語らない悪役、地味で重いテーマ

ヒカセン問題以外にも、不評の理由はいくつかある。一般的に挙げられるのは、「語らない悪役への不満」「家族という地味で重いテーマ」あたりだ。

多くのプレイヤーは、おそらくエメトセルクのように「雄弁に自分を語り、共感させてくれる悪役」を期待していた。でも、ゾラージャは自分の弱さを隠し、孤高を演じた男だから、心情を語らない。「ただ強さに固執した、動機が弱く浅い悪役」に映ってしまった人がいるのも分かる。

でも、これって、私が感じたこの物語の「魅力の裏返し」でもあるんだよね。

▼ だからこそ、私には深く刺さった

そんな欠点を全部踏まえた上で、それでも私には、このドメスティックな家族の愛憎劇が誰よりも深く刺さった。

黄金のレガシーが描いたのは、「愛があっても、尊敬があっても、ボタンの掛け違いで人は殺し合うことになる」という残酷なリアリズムだ。

グルージャジャは息子を愛していたが、その偉大さゆえに息子を追い詰めた。ゾラージャは父を愛していたが、その憧れゆえに父を拒絶した。「誰も悪くないのに、全員が苦しい」。シェイクスピアやギリシャ悲劇を読んだあとに残るような、人生のどうしようもない無力感。それが私はたまらなく好きなんだ。

もしゾラージャがペラペラと「俺は苦しかったんだ!」と分かりやすく泣いていれば、もっと多くの人に好かれただろうね。でも彼は最後までそれを隠し、理解されないまま死んでいった。私は、その「分かりやすく泣いてくれない不器用さ」にこそ、人間としての生々しいリアリティと愛おしさを感じた。

私がこの作品から受け取ったのは、「ディスコミュニケーションの愛おしさ」だ。伝えたいことはあったのに、プライドや立場が邪魔をして、死ぬまで言えなかった。一番近くにいたのに、一番遠い心を持っていた。

私は、彼が正しく成功する姿ではなく、「人間らしく失敗し、人間らしく拗らせて、取り返しのつかない所まで行ってしまった姿」そのものを、愛しているんだよ。

「ゲーム的な爽快感」や「分かりやすい悲劇」を犠牲にしてでも、「人間の割り切れなさ」を描き切ることに挑戦した作品。それが『黄金のレガシー』であり、だからこそ、この物語は私の心に一生消えない爪痕を残したんだと思う。

第2章 救われなかったゼノス

▼ 公式が出してきた「ゼノス」の名前

物語の中で、アリゼーがこんなセリフを残している。

同じ王子なせいか、ゾラージャ王子からはゼノスと似たものを感じるわね。あっちは、もっと話を聞かない奴だったけれど。

アリゼー

公式が「ゼノス」の名前を、ゾラージャと並べて出してきた。なら、ゾラージャとゼノスを並べて考えてみよう。

ゼノスもまた、ガレマール帝国の皇子という生まれで、他者に無関心な、孤独な王子だった。「強敵との戦いだけが生きる意味」という偏執的な行動原理で動き、世界中を引き裂いて、最後はヒカセンとのタイマンの末に死んだ男。表面的な属性だけ拾えば、ゾラージャと確かに似ている。

でも、この二人には決定的な違いがある。

▼ 狂人ゼノスと、真面目なゾラージャ

ゼノスは、はっきり言って狂人だった。

彼は世界中を蹂躙し、大勢の民を殺した。ユルスから「お前のせいでガレマールが壊れた、民間人がどれだけ死んだと思ってるんだ」と詰め寄られても、こう答えるだけの男だ。

すべて事実だ。今となっては、さして意味もなかったがな。

ゼノス・ヴェトル・ガルヴァス

良心の呵責はない。後悔もない。彼にとって他者の生死は「鍛錬の糧」か「どうでもいい背景」でしかなかった。完全に倫理の外側で生きていた男だ。

そんな彼に対してアリゼーがキレて言い放ったセリフが、すごくいい。

あなたの生き方は強いわ。一理あるとも思う……。けどね、それで他人を傷つけてたら、あなたはずっと孤独なまま。再戦だってなんだって、望まれるわけないわ。人に求めることがあるならば、自分が愉しむだけじゃなく、一緒に愉しめるように考えるものよ。そんなこともわからないなら……永久にふられてなさい。

アリゼー

ゼノスはこれを聞いた。そして実践した。「望まれる戦い」を成立させるために、自分のやり方を変えて、ついに待ち望んだヒカセンとの再戦に辿り着いた。彼の願いは、叶えられた。

一方、ゾラージャは違う。彼は狂人じゃなかった。真面目で、普通の人だった。だから壊れたんだと思う。

ゼノスのように自分の欲求だけに純粋な狂人なら、他人の忠告すら「目的のための手段」として素直に聞き入れられた。

でも、ゾラージャはもし誰かに同じように本質を突かれたとしても、「奇跡の子」という重い鎧を脱ぐことができず、素直に聞き入れることなんてできなかったはずだ。狂人になりきれなかったその真面目さこそが、彼を逃げ場のない苦しみへと追い詰めていったんだ。

▼ もしゾラージャがゼノスの言葉を聞いていたら

そしてここで、ゼノスの放ったあるセリフを思い出したい。

現実に納得するための理由を、他者になど求めて何になる。そんなもの、たとえ地の果て、天の果てまで問い求めようが、返ってくるのは誰ぞの都合よ。己が生に横臥することごとく、それに意味を、答えを出すのは己自身だ。

ゼノス・ヴェトル・ガルヴァス

もしゾラージャが、このゼノスの言葉を聞いていたら——「答えを他者に求めるな、自分で出せ」というその冷酷な真理は、刃のように彼の急所へと突き刺さったはずだ。

「他者に認めてもらうために生きるな、自分で自分を認めて生きろ」「お前の苦しみは、お前自身がお前に課しているものだ。父親は関係ない」そうやって、誰かが冷たく言い放っていたら。彼は少しは楽になれたんじゃないかな。

▼ 願いを叶えた男と、何も叶わなかった男

ゼノスは、自分の願いを完璧に叶えて死んだ。「友との再戦」という、彼が望み続けたものを、最後の最後に手に入れて、満足して逝った。

ゾラージャは、何ひとつ叶えられないまま死んだ。「奇跡の証明」という、彼が人生をかけて追い求めた目標は、最期まで達成できなかった。父を超えることも、自分が「奇跡の子」だと証明することも、ぜんぶ叶わなかった。

似ているように見えても、似て非なる二人の王子。狂人と、真面目な男。願いが叶った者と、叶わなかった者。

「ゾラージャもまたゼノスのような男だった」——というよりは、「ゾラージャは、ゼノスのようには生きられなかった男」だったんだと思う。

第3章 なぜトカゲだったのか

▼ 鱗に覆われた、湿度の中和

ゾラージャという男の物語は、本当に湿度が高い。父への憧れと劣等感、認められたいという飢え、家族との対話拒否。それに加えて、彼に執着する女が、ただ関心を引くためだけに子供を産んで突きつけるという、身勝手でドロドロとした男女の執着まで渦巻いている。

「相手の気を引くために子供を作る」という生々しい展開は、よく考えるとFF14の作風としてはかなり異質だ。これまでのFF14のストーリーには、確かに重い物語がたくさんあった。でも、こうした男女のドロドロとした愛憎は、プレイヤーがこのゲームに求めている王道からは少し外れていると思う。

そしてこれは、父子関係についても同じことが言える。ゾラージャとグルージャジャの間にあった凄まじい愛憎と歪み。もしこれを、人間のイケメンなキャラクター同士でやっていたらどうなっていただろう。

その濃厚すぎる男男の感情のぶつかり合いは、FF14人気キャラランキングの上位に食い込めるポテンシャルがあっただろう。特定の層には熱狂的にウケたとしても、その代わり、人の姿だからこそ「狙いすぎている」という生々しさが鼻につき、物語の本質とは違う部分で不快感を示すプレイヤーが、今よりも続出していたはずだ。

だからこそ、この一方的で生々しい執着の物語の主要キャラが「マムージャ族」だったのは、最適解だったのかもしれない。

彼らが鱗に覆われたトカゲの獣人だったからこそ、この物語が放つ強烈な湿度は幾分か中和されたと思う。決して万人に受け入れられる形ではないにせよ、「ファンタジー世界の異種族」という体裁をとることで、FF14のメインストーリーとして世に送り出すことができたんじゃないかな。